先日『子どもの遊びを考える』の提案章を執筆した矢野勇樹さんと、LAFTメンバーの内輪でオンライン対話を行った。気軽にさまざまな話ができる貴重な時間だった。
矢野さん自身は現在、教育理論や実践の場には関わっていないようだが、当時のことを振り返りながら丁寧に語ってくれた。その穏やかな語り口の中には鋭い視点が光っていた。
「カエルがいたらゆでるでしょ?」 遊びの主体性と中動態
対話の中で印象的だったのが、「カエルがいたらゆでるでしょ。子どもは」というエピソードである。
「能動/受動」の枠組みでは捉えきれない「遊び」という行為。遊びとはそもそも、誰かに「遊ばされる」ものではなく、内側から沸き起こるものだと中動態を援用して、矢野さんは提起している。この視点から、遊びは「能動/中動」の枠組みでこそ記述されるべきだと指摘している。
プレーパーク冒険遊び場の話も興味深かった。子どもたちは「よーし、今日はカエルを捕まえるぞ! そして火を起こすぞ! よし、ゆでてみよう!」と事前に計画して遊び場に集まるわけではない。その場にカエルがいたら、ふと「ゆでてみよう」とひらめいてしまう。こうした「内側からのひらめき」を矢野さんは主体性ではないかと呼んでいた。
僕自身も子どもの頃、駄菓子屋で爆竹を買い、公園で友達と遊んでいた記憶がある。水辺には小さなカエルがいて、目の前に爆竹があると「試してみよう」とひらめいてしまう。今となっては考えられないが、あの頃の僕もまた、確かに僕だった。こうした衝動やひらめきは、主体性のどのような側面に関わるのだろうか。
主体性Aと主体性B 子どもの成長におけるせめぎ合い
この話を聞いて、僕が思い出したのは大妻女子大学の久保健太さんが提唱する「主体性A」と「主体性B」の違いだ。
- 主体性A:「やりたい」「やりたくない」「なんかいい」「なんかやだ」といった直感的な感覚が自然に生じることで、「生きている実感」に満たされる。理由や論理を必要とせず、ただ感じることそのものに価値がある。
- 主体性B:主体性Aによって湧き出た感覚や感情を整理し、それに基づいて「するかしないか」を決定する働き。これは思考や知性の関与を必要とする「行為主体性(agency)」であり、OECDが好む「主体性」の概念に近い。
この二つは対立するものではなく、連動しながら人が「主体であること」を生きるための重要なプロセスとなる。
子どもが成長する過程では、主体性Aと主体性Bがせめぎ合いながら発達していく。幼少期には主体性Aが強く、「やりたい」「やりたくない」という衝動が表に出ることが多い。しかし、成長とともに主体性Bが加わり、自分なりの判断基準や社会との関係性を踏まえた選択をするようになる。この発達は「ゆれ」として現れ、「自由にやりたい」という気持ちと「約束を守らなければならない」という意識の間で葛藤して子どもは成長していく。
また、主体性Bには「倫理的な感覚」も含まれている。「風邪をひくからやめなさい」と言われるのではなく、「寒いと感じたからやめる」というように、自分の身体の声を聞いて判断する。これは外部から押し付けられた道徳的規範ではなく、自らの内側から生まれる倫理のことである。
主体性を理解するために
こうして考えると、主体性は単に「自由に選択する力」ではなく、「内側から湧き出る感覚」と「それを整理しながら行為へとつなげる働き」の相互作用として捉えられるべきだろう。教育や保育の現場で主体性を表層的に捉えることなく、より深い理解につなげるためには、この二重の働きを意識することが重要になる。
このあたりについては、久保健太さんの『写真と動画でわかる!「主体性」から理解する子どもの発達』が詳しいので、参考にしたい。その思想的背景にジル・ドゥルーズ哲学があり、ここも面白いのでつい読み始めてしまう。
つまり、「やりたいからやる」という単純な話ではなく、やらないという選択にもまた、複雑な心理的な背景がある。この背景を「関係論」的に捉え、その子の内側にある物語を読み取ろうとしなければ、本当の意味で主体性を理解することはできないだろう。これは、教育の現場にいる僕たちにとって非常に大きな課題であり、責任でもある。ひー、しんどい。
LAFTラジオ 対話の場をつくる
今回の対話を通して、改めて「人と話すことの面白さ」を実感した。対話を通じて学びが整理され、思考が深まっていく。
こうした学びの場を、オンラインでも今後作っていきたいと考えている。名付けて「LAFTラジオ」。今年は、テーマに近しい人や著作者を招き、その人の考えをたっぷり聞きながら自由に対談する場をつくる予定。これからどんな対話が生まれるのか、楽しみだなぁ。